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PUMP1コンペティション

来る2月23日(土)に、PUMP1という川口にあるクライミングジムにてビギナー・ミドルクラスのコンペティション(競技会=コンペ)がある。クライミングの先輩である解剖の先生から誘われて、私たちも出場することになった。先生はミドルクラスに、私とricky、pecomaはビギナークラスにエントリーした。


クライミングをはじめたのは8月末、ほぼ9月だからまだ半年経っていない。クライミングをはじめて1週間後くらいに自分のシューズ、チョークバッグ(滑り止めのチョークという粉をいれるバッグ)、ハーネス(腰と大腿部で確保する安全ベルト)を購入したのだが、そのとき買ったハーネスは「ギアラックが少なく、コンペ向き」というハーネスだった。買った当時そのハーネスにした理由は店員さんに勧められたからで、女性の体型にあうよう作られたハーネスとのことだった。コンペのことなど全く意識していなかったが、明後日はそのハーネスを身につけてコンペに出場する。


ギアラックとは、クライミングに必要な各種ギアをすぐ手にとれるようひっかけておく輪っかのことだが、このハーネスはその輪っかが左右1対しかついていない(普通は左右2対はついてる)。コンペではハーネスにギアをひっかけておく必要が一切ないので、ギアラックは無くていい。無くていいものは無いほうが身軽で、その分有利だということだ。


つい一昨日あたり、コンペの要項がおくられてきた。予選は2本のルートをトップロープで登る。到達点がより遠かったほうから順位が決まる。ビギナーにエントリーした選手の数は全部で29名で、ぱっと見1/3が女性のようだ。競技は男女混合で行われるので、私はpecomaともrickyとも戦うことになる。ちょっと萎えるけど、精一杯やるしかない。


この中で上位6名がAクラス、それ以下がBクラスと組み分けされて、それぞれで決勝が行われる。とりあえず目標はこの上位6名に入ることだ。それが出来なければBクラス入賞を狙っていきたい。お店の人によるとビギナークラスは「5.10台を登るくらいの人たち」がエントリーするクラスらしい。私はOSグレードは5.10cでほぼ確実にOSできると確信もって言えるのが5.10bまで。最近やっと5.11aをリードできるようになってきた程度なのだが、みんなどのくらいのレベルなんだろう。そこが未知数なので、どこまで行けるかは正直謎である。


昨日まで原因不明の胃痛と頭痛に悩まされてたんですが、ようやく落ち着いてきたみたい。明後日へ向けてコンディション整えていきます。躰道部の試合にも久しく出ていないので試合系は久しぶり。それも初のクライミグコンペとあって、とっても楽しみです。


精一杯楽しんでこようと思います★

そうやって患者を殺すのか!

医者がよく使う説教の文句だ。


多分、はじめて言われたときは心に響いた。そのときが何年生のときで何をしたときだったかは忘れたけれど、そうか自分は患者さんの命を預かる仕事につくんだなと、改めて思った気がする。


しかし最近思うことは、医者はこの言葉を濫用しすぎなのではないか?ということだ。


まだ患者を殺すかもしれないという連想に無理の無い失敗などなら、こう言って諭すのもいいだろう。だが、例えばレポートの提出時間を10分遅れてしまったときに言われたことがある。


「時間を守れないというのは最低なことです。そうやって患者さんを殺してからでは遅いんです」


時間を守れない=患者を殺す ?


一見するとたしかにそういうこともあるかも知れないと思わせてしまうこの構図。だがよく考えてみると、そういったシチュエーションは結構考えにくいということに気付く。予め決められた時間があるというのは、外来患者さんの予約時間だとかopeの開始予定時刻だとかいろいろあると思うが、予定されているという時点で緊急性はゼロである。10分遅れたとして患者が死ぬようなシチュエーションがあるだろうか。精神科の外来で、約束の時間に10分遅れたら患者さんがそのことに絶望して自殺してしまった。そんなことでもない限りやはり考えにくい。
この場合は、「社会人として時間を守れないのは致命的です。社会に出てからこんなことをしたら信用は決して取り戻せませんよ」などと諭すほうが適切である。


私が言いたいのは、いくら重みのある言葉だからって何でもかんでもそれを使えばいいというものではないということだ。少なくとも時と場合を考えて使うべきだし、あまりにそればっかり言い過ぎるのもその言葉の重みを失うことになる。医者は何かといえば「患者さんを殺す」という言葉を引き合いに出して、バカの一つ覚えみたいに、他に説教のネタは無いのか?と言いたくなるときもある。


言葉は大切に使おう。
でないと本当に伝えたいことも伝わらなくなってしまう。

理想と現実と

私は誤まった評価を受けることがよくある。と思っている。


誤まり方も一様ではなく、実際より低い評価を受けることもあれば、高い評価を受けることもある。どちらの場合に於いても、最終的には空虚感、物悲しさが残る。実際の通りに他人から評価してもらえたときのみ、私の心は素直な喜びで満たされる。


では、実際とはなんなのか。
実際の私、とは。
そう考えてみると、ここで言う実際とは自分が認識している自分の姿ということになるだろう。自分のことは自分が一番よく判っている。実は他人のほうがよく判っているのだといわれることもあるが、それは言葉の定義の問題にもなってくるのでまた違った議論をしないといけなくなる。
どちらにせよ、自分が認識している自分の姿のことを、"ほんとうの自分"と思っている人が多いのではないだろうか。私に限らずとも、大抵の人はそうなのではないだろうか。


すごいね、といくら褒められても、"ほんとうのわたしはそんなんじゃないのに"と思う。それはほんとうの自分の空虚さを改めて認識するきっかけとなる。そしてほんとうの自分、ほんとうは空虚な自分を知られてしまうことに対する恐怖感が増す。もっと自分をよく見せようとする結果、またほんとうとは違う評価をされて傷つく。褒められているのは"ほんとうのわたし"ではない。やっぱり"ほんとうのわたし"を褒めてくれる人などいないのだ、と。


実際、自分すら、"ほんとうのわたし"を褒めてあげていない。


うつなどの病気にかかりやすい素因のある人として、「完ぺき主義」「神経質」などの気質があげられている。私は決して病気ではないが、「この世から消えてなくなりたい」という思考、医学用語でいう"希死念慮"の軽いものみたいな思考が慢性的にある。いつからかと問われれば、思い出せないくらい昔から。何かのきっかけによりその思いは強くなったりする。友人などは、人生を楽しんでいるように見えるし何事もなるべく楽観すべきだと口では言う私が、そのような考えに囚われていることを不思議がる。私も、人生を楽しむため、ひいては幸せな毎日を送るためには、そんなネガティブな思考は邪魔だということくらい判っている。そういう思考が私の幸せへの前進の足手まといになっているのだとも。


でもそれは必然的に生まれてくる思考であって、どうしても消すことは出来ない。ある程度の条件が揃っているからだと、自己分析により結論付けた。すなわち、①理想がたかくて②完ぺき主義で③心が弱い。


平たく言えば、理想と合致しない自分のままで生きていることが苦痛なのである。かといって高い理想に自分を近づけられるような努力家でもないから、それなら消えてなくなってしまえれば楽だ、という短絡的思考に逃げるのである。そういう気持ちの強くなったのが、うつの自殺企図とかに発展するのだろうか。私は気付かないふりをしてみるだとか、「ま、しょうがないっか」と妥協、楽天してみるなどの回避策でもって対処しているが、本当はダメダメな自分で生きていることが恥ずかしい。恥ずかしくて堪らない。それでもこの世に生き続けてるということ自体が耐え難い恥さらしだ。


そういう恥ずかしい気持ちを100%自分開発のエネルギーに変換できればいいのだが、どうもその変換効率が悪いように思う。20%くらいは有効利用されるが、残りの80%は「やっぱり消えたい」という無為な思考となるだけ。


消えてしまえば楽になれる。
一番安易で卑俗な思考なのだ。
これが消えてなくなる日は来るのだろうか。
そのときは生まれ変わりのときのような気がする。


"Love Yourself"
それは想像もつかないほどのエネルギーを要することかもしれない。


しかし輝きを放つ人の
世界共通言語だろう。

思いやり

HP集客のためにもブログをかけとpecomaが言うので、ひとつどうでもいい話をしてみよう。


世の中には間違った思いやりというものが多分にある。
そういった思いやりをかけられた人は大抵それをありがた迷惑に感じるものだ。


そのひとつの例。
よくトイレの個室の壁に、「ペーパーが無くなったら補充しましょう」と書いてある。
「あとの人のことも考えて」「思いやりを持ちましょう」という記述も見たことがある。



ここで敢えて聞く。
それは本当に思いやりなのか?



男性なら小便器というものが存在するから、個室を使う際はほぼ100%大だ。女性だと大中小あると思うが、大半の女性が大中小どれをした場合でもトイレから出たら手を洗うだろう。
何が言いたいかというと、「汚い手で替えられたペーパーを貴方は使いたいですか?」ということである。



大便をし終わった後、一旦トイレを出て手洗い場で手を洗い、そのあと戻ってきてペーパーを替えることまで貴方は強要するだろうか?強要したとしてもそんなことをする人が居るだろうか?つまり、ことが終わったあとに「あとのひとのことを考えて」ペーパーを補充するという行為は、大腸菌のついた手でつかんだペーパーをあとのひとたちに使わせるという行為にほかならないのだ。



私は、世間がしている「大腸菌はトイレトッペーパーを何重にしても通り抜けるor通り抜けない」論争をしたいわけではないし、ことが終わったあとの人の手にどれくらい大腸菌がついているかなどを論じたいわけではない。同じペーパーを替えるなら、そのとき使いたいひとが替える。それでいいのではないか。わざわざ大腸菌がついているかもしれない(現にたいていの人が手を洗うような状況にある)手でやるよりも、比較的きれいな(強迫障害でもなければ手を洗う必要の無い状態にある)手をしている人がペーパーを替えればいいのではないか。



だから前の人がペーパーを替えることがもし「思いやり」だと思っている人がいるのなら、もう一度よく考えてみて欲しい。
ちなみに私は、大腸菌のついた手で新しいペーパーを触って欲しくはないから、あえてペーパーがきれても替えないでいいですよ、と言いたい。



この「勘違い思いやり」話、私の認識が一般と多少ずれるところが多いせいか、シリーズ化できそうだ。またネタがあれば書きます。


それでは、HP「尾根のむこう」もよろしくね!

専業主婦

「専業主婦」「永久就職」という言葉には、なんだかマイナスイメージがつきまとっていた。



「家庭を守る」なんて私には無理だ。
男だけが外の世界と内の世界を行き来でき、女は閉じ込められたかごの鳥。家事、育児に忙殺されて家のなかにひきこもり、ひとりぼっちだ。男はそんな鳥を飼いならしてかごの中に閉じ込めておき、自分だけ外の世界の刺激を独り占めする。結果、女にとっては家庭、ひいては夫が世界の全てになるのだが、男のほうはそうではない。そのうち外の世界で不倫などをはじめ、妻をないがしろにして尚もかごの中に閉じ込めておこうとする・・・。



そんな救いようの無い固定観念が、私のなかにあった。



だが最近、クライミングジムに来る中高年の女性を見るにつけ、思うことがある。



専業主婦って実は超お気楽なご身分なんじゃないか!!??



子供さえいなければ、家事に忙殺されるなんてこともないだろう。やるべきことはやり、それが終われば後は「フリータイム」!仲間を誘って近くの外岩にでかけるか、ジムにでも行って夜まで遊ぶか、自分の好きなように時間を使うことが出来るのではないか。生計を立てるために平日の時間を制限されることなどない。外界からの刺激という点では、むしろ仕事場に閉じ込められている夫より、山仲間との交流時間が多くなる。



夫が山好きなら尚良い。仕事が休みで夫が家に居るときも一緒に山へ行くことが出来る。夫が山に興味がないとなると、週末まで別行動、ということになってしまうから、姑などから「うちの嫁は夫をほったらかしにして遊び歩いている」なんて言われてしまう。



こう考えてみると、「永久就職」は案外希望ある道のようである。
無論、そう簡単に相手が見つかれば苦労はしないというものなのだが・・・。



そして思う。
こんな打算的な腹のうちをブログ上で堂々と表明してしまった私は、もうお嫁に行けないのではないだろうか・・・。

プロフィール

chippe

Author:chippe


肉好きchippeのブログへようこそ!
2006年10月 山歩きを始める。
2007年9月 クライミングを始める。
山岳同人「青鬼」所属。
「メラメラガールズ」所属。
国際認定山岳医。
「カリマーインターナショナル」アンバサダークライマー。
現在は無職、旅人。
旦那さんはpecoma。

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